昭和42年07月02日 夜の御理解



 今日、熊本の吉田先生が御信者さん方二人連れてから参拝してみえました。で、あすこでお茶でも上げさして貰うて、色々お話をしておる中に、先生あのこちらで発行されておりますあの根賀以と言う新聞の内容がもう実に、その学生会の方達が、なさっておられるというのには、まぁいうなら出来すぎておると言う位に、内容が充実して立派になっていきよると云う事からでしたが。
 もう本当にあの私を始信者一同がおかげ頂いとりますから、あれを是非あの十部づつばかり頂きたい。そして一部はとっておきたい。それはあの先生の矢張り御理解もさる事ながら、先生のお伝説風なものが、あの根という題のもとに乗っていきよる、あれがもう大変魅力ですとこう云うておられました。それについてまぁ色々もう、許されるなら、私共も投稿さして頂いてです。
 いわゆるよその教会のものが、見た合楽、私が見た合楽の先生、そう言う様なものを書いてみたいと思うですが、まぁどうぞよろしゅうお願いします。というてから、まぁ申しました事でございますけれどもですね、先月だったかなぁ、新聞にまぁとにかく素晴らしい言葉というものは素晴らしい感動を持って心にひびいて行くものである。しかも、何時までもそれが残るものだと、云う事をですね、云うておりましたが、こう云う事が載っておったそうですね。
 私の挨拶か御理解の中か分かりませんけれども、ここの合楽のお広前がもう本当に忽然として出来ておる、ですからまた忽然として消える可能性がある。けれども私が日頃私もそれを思い、皆んなにもそれを伝えておる様に、限りなく美しゅうなりましょうやと云う事。是がある限り、忽然と消える様な事は無いでしょう。と言う様な事が書いてあったそうです。確かにここのお広前が忽然として出来たという感じである。
 ですから忽然として消える可能性がある。けれども私自身がです、限りなく美しゅうならせて頂こうやと、是が合楽の合い言葉の様に内容と共にです、本気で総ての事を、いわゆる問題を問題としてです、問題を本当に自分自身が信心を頂かせて貰う。美しゅうならせて頂く所の事にしていったらです、忽然と消える様な事は無いだろうと、こういう言葉がもう私は是を繰り返し繰り返し、詩の様に繰り返しておりますとこういう。確かにお道の信心のおかげというのは、それこそ枯れ木に花が咲く様な事がある。
 それこそこつぜんとして湧いてでた様に天から降ったのか、地から湧いたか分からん様にしてです、頂けるおかげ。だから又こつぜんと消える可能性がある。折角頂いておったおかげをです、あっという間に落とすという例があると云う事。信心を落としたら、そこんところを落とさん様に、落とさん様にというのじゃなくてです、もう限りなく美しゅうならせて頂こうという。
 ここんところに焦点を置いての、信心を進められてさえ行くならばです決して忽然と消える様な事は無いだろうという。私それを聞きよってから、先生自身が涙ぐんで話されるのです。そこを言よったら私もつい感動しました。本当に自分の言葉では感動しなかったけれど、人から聞かせて頂いて改めて私感動さして頂いた。確かにそうだなぁと思うんです。そこでなら美しゅうなると云う事なんですよ。無欲な人があります。
 もう私は要らん、何も要らん。まるきりその清貧に甘んずると言った様な事が、欲の無いからの様に言う人がある。私が言う所の限りなく美しゅうなると言う事は、そんなこつじゃない。限りなくおかげを受けてです、その受けた例えばものならもの、金なら金がです、何時でも私のものでない、神様の御物として感じる事が出来、離す事ができれると云う事が美しい事なんだ。私はそう思うですね。
要らん、要らんというても、その自分が人から貰うとに、もういやと言う様な要らん、要 らんと言うのじゃなくてです、さっさと貰う。さっさと儲かる。そしてその儲からして頂いた。頂いたそれがです、限りなく神様にお喜び頂ける様な事の為に、もう何時でもそれが使えれる私になる事が、美しゅうなる事なんです。高橋正雄先生のお話の中に、そんな話があります。
 まだ若い時分に東京の日比谷かなんかの、公会堂で公開講演をなさった事があった。その時に恥ずかしい事ながらとにかくですね、何百人かしか聞き手がなかった。といういわゆる金光教の信者が、一部集まったというだけであった。所がですね、時を同じゅうしてというか、その翌日何々博士というか、学者風の人の講演があった。当時入場料、五十銭か、六十銭かとられたそうです。
 ところがですね、その日比谷公会堂のですね、がもう立錐の余地も無い位に集まったそうです。でその事をある新聞記者がま、皮肉って書いておった。金光教はあんまり安売り過ぎるから、自分は昨日、高橋という人の話を聞いた。今日は何々博士の話を聞いたけれども、全然問題じゃないと、高橋という人の話は実に実があり、深さがある。ところが何時いつの場合は、いわゆる何でもない、いや詰らん話がです。
 やっぱり五十銭なら五十銭、六十銭なら六十銭という入場料を取っておったから、却ってあれは入りが一杯になったんだと、言うような事が書いておったという事です。 だから高橋先生がそれこそ、ご覧になってです、確かに金光教は美し過ぎる」。金光教はあまりにその美し過ぎてです、却っておかげ頂かん。綺麗な水の所に言わば魚が住まない様に、少しは場合によっては、汚のういかにゃいかん。
 玉水の教会あたりが周囲の教会からどうも玉水さんは商売的だと言われる様な、その非難がごうごうとしてあったけれども、そういう言わば非難がか絵っていろんな人が助かるおかげの元になったという事なんです。私共もどうでもそういう生き方で生きたいと思う。ですから矢張りですね、そのとにかく、高橋正雄先生がその事を持って、悟られた事はです、矢張り入場料でもとってお話をさして頂くと言う事。
 しかもそれで儲かるという事じゃない。その浄財がです、有り難い神様の御用なら御用にです、お喜び頂ける様な事へ、それこそ惜しげもない、悪しげもなくそれが使えれると云う事が、本当だと言う様な事を、言われたという話があるんですね。ですからそこんところを、私共がこの頂いて行かなければならん。美しゅうなると言う事はいいえもうという事じゃない。
 さっさと頂かにゃ、まぁ言うなら催促してでも頂いていいと言う事。頂く理由があるならばそしてそれを自分に、がめつう取り込んでいくというのじゃなくて、それがより有り難い事に使われていくと言う様な事が、平気でできれると云う事がね、私は限りなく美しゅうなる事だと思うですね。限りなくとにかく美しゅうならして頂くと言う事に。焦点を置くと言う事同時に私は今日その吉田先生のその話をです。
 それこそ詩を読む様な口調で話されるのを聞いておって、私自身が私の言葉にですね確かに私が話した言葉なのに、私が感動さして頂いたんです。ですからそれが感動だけに留まらずにです、それが本当に自分の物になって行くと言うか、確かに限りなく美しゅうならせて頂くと言う所にですね、矢張り修行がいるんです。修行なしに美しゅうなれる筈はありません。いや修行なしに例えて言うならばです。
 私なら私の話をです、入場料とって言うたっちゃ、だぁれん聞き手はなかもん。修行もない者の話を本当に、修行の裏付けがあって本当にその話を聞いたら。助かると言う様な裏付けがあってこそ、初めて人が金出してからでも聞こうと云う事になって来るのです、ただ話が上手だけではいけない。ですからどうでもそこんところがですね、おかげを頂きたい、どんなにがめつういってもいい、信心は。そしてそれがです、有り難い事へ行事される様なおかげを頂く事こそ、私は美しゅうなる事なんだと思うですね。
   どうぞ。